ドストエフスキーとてんかん/病い


ドストエフスキー、カラマーゾフの兄弟、そして、てんかん


James G. Gamble
下原康子 訳

典拠
Dostoevsky, The Brothers Karamazov, and Epilepsy - PMC (nih.gov)
Cureus. 2023 May; 15(5): e38602.
Published online 2023 May 5. doi: 10.7759/cureus.38602
PMCID: PMC10166408
PMID: 37168406
Dostoevsky, The Brothers Karamazov, and Epilepsy
Monitoring Editor: Alexander Muacevic and John R Adler
James G Gamblecorresponding author1
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抄録


フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは、19 世紀のロシアの文豪である。彼は発作性の疾患を患い、それが作家の生涯と創造に大きな影響を与えた。 彼の作品は愛、信仰、懐疑、倫理などの問題を探求しているが、そこには彼自身のてんかん体験の影響が考慮される。 彼は家族間の精神学的力学を観察していた。 『カラマーゾフの兄弟』 (1880 年) はドストエフスキーの最後にして最大の大作である。ドストエフスキーが肺出血で亡くなるわずか数か月前に完成した。死の直接の原因は彼の生涯にわたる喫煙習慣が影響している可能性が高い。 『カラマーゾフの兄弟』の中でも、彼はカラマーゾフ家の複雑な人間関係を精神病理学的に探求し、カラマーゾフ兄弟の一人であるスメルジャコフがどのように心因性の非てんかん発作をアリバイとして利用したか、そして父殺しという完全犯罪を免れ得たかを描いている。

キーワード
てんかん、カラマーゾフの兄弟、病気と創造性、心因性非てんかん発作、ドストエフスキー


概要と背景

19 世紀のロシアの文豪、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー (1821-1881) は、てんかんを患っていた。 彼の書簡や日記には、発作で体験した痛烈な不安が記されている。彼のてんかん体験は、人間心理に関する広範な理解と相まって、19 世紀の優れた文学のいくつかに影響を与えた。『地下室の手記』 (1864 年)、『罪と罰』 (1866 年)、『白痴』 (1868-69 年)、『悪霊』(1872年)『カラマーゾフの兄弟』(1879-80年)などが主要作品とされる。これらの作品の中で、登場人物たちのキャラクターが非常に豊かに展開され、1 世紀以上経った今でも、私たちは彼らを親しい知人のように感じ、彼らの社会的および心理的闘争に入り込み夢中にさせられる。ドストエフスキーは、登場人物の文学的思考と行動を通して、信仰、懐疑、倫理、愛の問題を創造的に探求したのである。

『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキーの最後にして最大の小説である。おそらく生涯にわたる喫煙習慣の合併症による肺出血で亡くなるわずか数か月前に完成した。 この小説の中で、ドストエフスキーは登場人物を使って二つの重要な哲学的問題を掘り下げている。一つは人間の苦しみとは何か?次に人間はいかに生きるべきか?という二つのテーマである。 [1]。 この評論の目的は、ドストエフスキーの生涯と作品に及ぼしたてんかんの影響について議論し、ドストエフスキーの登場人物の一人である『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフにおけるてんかんの利用に焦点を当てる。これは、ドストエフスキーの身体的問題、及び発作障害に関連する心理的側面についての理解を示すものである。


あらすじと登場人物

『カラマーゾフの兄弟』は、兄弟の父親であるフョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフ(55歳)の殺害に至るまでの出来事とその後をめぐって描かれている。 フョードル・パーヴロヴィチは重度のアルコール依存症であった。好色な堕落した人物であり、ひどい父親だった。[2]。 しかし、彼は狡猾な結婚と巧妙な商売を通じて経済的には成功していた。 彼には、過去2回の結婚で生まれたドミトリー、イワン、アリョーシャという3人の息子に加え、私生児とされるスメルジャコフがいた。 フョードルは子どもたちをほったらかしにした。兄弟はみんな使用人また見知らぬ親戚や他人の世話に委ねられた。 事件は成人した兄弟全員がさまざまな理由で全員がそろっていた父親の敷地で起こった。

最初の結婚で生まれた長兄のドミトリー(27)は、頑強で粗暴、せっかちで金づかいが荒く熱しやすい青年に成長していた。[2]。彼には母親からの遺産があったので、成人すればその遺産で経済的に自立できると信じ込んでいた。 彼は遺産のことで父親が自分を騙していると思いこみ、どうしても父親から金を手に入れる気でいた。遺産をめぐる争いに加えて、若く魅力的なグルーシェンカを巡って父親と三角関係になっていた。ドミトリーは父親が3000ルーブルでグルーシェンカを誘惑しようとしていると思いこみ、嫉妬と怒りで我を忘れた状態にあった。彼は事件が起こる前にも、父親に暴力を振るったことがあった。

次兄のイワン(24)は、むっつりしたインテリである。典型的な合理主義者で、ドミトリーと同様に父親に対して深い憎しみと怒りを抱いているが、その感情は密かに抑圧され、理性によって制御されていた。彼は自分の感情を知的に解釈する。家族や周囲からは、冷淡で無感情で謎の多い人物と思われていた。神も不道徳も存在しない、ときっぱり言い切った。「事実のみ」というその態度は周囲との親密な関係を妨げていた。

末の弟、アリョーシャは、イワンとは正反対の、優しく繊細で、思いやりのある20歳の青年である。 事件の数年前から、カラマーゾフの屋敷からほど近い修道院で修行していた。 彼は誰に対しても、父親にさえも、けっして悪意を持つことがなかった。 彼にはゆるぎない神への信仰と人々への信頼があった。 兄弟全員が再会して以来、彼は家族内の諍いを収めるために一人で奔走していた。

フョードルの私生児とされるスメルジャコフは、陰気で不愉快な人物である。フョードルは彼を邪険に扱いながらも料理人として雇った。 放埓なフョードルが、不愉快なスメルジャコフのような男をなぜ屋敷に迎え入れたのかは謎である。 スメルジャコフの母親は哀れな乞食女だった。仲間にそそのかされたフョードルが酔っぱらって彼女を凌辱した。彼女はフョードルの屋敷内の風呂場でスメルジャコフを生み、そこで死ぬ。偶然にも、生まれた子どもを亡くしたばかりだった使用人のグレゴリーが赤ん坊を発見し、自分が住む屋敷の別棟に連れて行き、善意の気持ちから育て上げた。しかしながら、グレゴリーの善意はスメルジャコフには伝わらなかった。スメルジャコフはドストエフスキーと同じ病を患っていた。発作を伴うその病は、19世紀の社会では忌み嫌われる病だった。

ドミトリーは、グルーシェンカが父親を訪ねるのを恐れ、その現場を押さえようと毎晩のように父親の家を見張っていた。嫉妬が昂じて、もしそんな事態になったら、父親を殺すと公然と言い放った。 ある夜、フョードルは自室で撲殺される。グルーシェンカにと用意していた3000ルーブルも紛失していた。 その夜も、ドミトリーは庭に潜んでいたが、グレゴリーに見つけられ、暗闇の中で追っかけられる。逃げようとして庭の壁によじ登ろうとしたところをしがみつかれ、グレゴリーの頭を杵で殴る。血まみれの手のままドミトリーはその場を逃げ去った。

グレゴリーの妻が当局に通報する。その夜遅く、ドミトリーはグルーシェンカと一緒にいるところを隣町の宿屋で逮捕される。彼は殺人の容疑で告発され、裁判を受けることになった。証拠はことごとくドミトリーに不利だった。金銭切迫、相続財産諍い、父親への度重なる脅迫、グルーシェンカとの三角関係、グレゴリーらの証言、服についた血。 これらすべての証拠にもかかわらず、ドミトリーの雄弁な弁護士は陪審員の心に有罪への疑惑の種を植え付けることに成功した。ドミトリーに有利な判決が下されると思われたその矢先、ドミトリーに裏切られた許婚のカテリーナが、ドミトリーが書いた手紙を提出する。そこには父に対する明確な殺意が記されており、決定的証拠として採用された。

ドミトリー以外で、疑惑の対象となった人物はスメルジャコフだけだったが、彼には一見完璧なアリバイがあった。 彼は殺人があった夜にてんかん発作を起こしていたのだ。 医師と捜査員の何人かは、事件のあった夜、スメルジャコフの激しいけいれんを観察していた。医師はその発作があまりにもひどいので、命の危険さえあると証言した。

ドミトリーは父殺しの罪で有罪判決を受け、シベリアでの重労働を宣告された。 最終的には、イワンに語ったスメルジャコフの告白により、真犯人はスメルジャコフであったことがわかる。事件の夜、捜査員や医師が観察したのは、今日でいう心因性の非てんかん発作だった。つまり、スメルジャコフは、発作を装っていたのである。

物語は悲劇へ向かう。 ドミトリーはシベリア行きの宣告を受け、イワンは自らの間接的な罪を自覚して発狂する。 そして、スメルジャコフは自殺する。彼の死により真犯人が発覚する可能性は完全に潰えた。 スメルジャコフの心因性非てんかん発作は、父殺しの罪を免れるための完璧なアリバイになった。


ドストエフスキー

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは、1821 年10 月30 日に父親が医師をしていたモスクワの貧民施設病院別棟で生まれ、1881 年 1 月20 日にサンクトペテルブルクの借家で 59 歳で死去した。 8 人兄弟(男4女3)の 次男だった。 彼の母親は物静かで敬虔な女性だったが、37歳で死去した。父親は領地を買って引っ込んでからは酒におぼれ、不機嫌で暴力的な人物になった。彼の死については領地の農奴に殺されたという説がある。父の死はドストエフスキーを生涯悩ませ続けた。その影響をいくつかの作品の中に見ることができる。

ドストエフスキーは常習的喫煙者だった。浪費家であり、賭博で借金や質入れを繰り返した。自ら自堕落で哀れな賭博者と自覚していた。しかし、 1871 年にきっぱりと賭博を止めた。 [3]。

ドストエフスキーの文才は、1846 年、24 歳のとき、最初の小説『貧しき人々』の出版によって世に知られた。 この成功がきっかけになり、ドストエフスキーはサンクトペテルブルクの活気に満ちた文学的かつ社会主義的なグループに接近する。 1848年の革命の混乱の後、ニコライ皇帝は社会主義者に対して強硬な姿勢をとり、多くの人を逮捕し、即時処刑した。 ドストエフスキーはペトラシェフスキーサークルの一員として逮捕された。死刑を宣告され、恐ろしい模擬処刑という試練の後に、最終的にはシベリアで4年間の獄中生活、その後セミパラチンスクでの兵卒勤務を命じられた。 彼はシベリアを生き延びたが、その間てんかんの悪化を見た。彼は有力な知己を通して、病を理由に軍医エルマコフ医師の診断書を添付してアレクサンドル2世に退役を願い出た。激しい発作を伴う病を証明したこの診断書はドストエフスキーのてんかん発作に関する最初の医学的記録となった。1859年38歳のとき、ペテルブルグに戻った。

ドストエフスキーのてんかんの性質については、長く議論の的になっているが、 彼が発作障害を患っていたことについては議論の余地はない。 友人、家族、著者自身による記述を含む、てんかんの診断を証明するのに十分な証言が残っているためである。 例えば、先の軍医エルマコフが1857年12月に作成した診断書には次の記載がある。「1850年に初のてんかん発作。症状は、突然の叫声、意識喪失、四肢と顔面のけいれん、泡噴出、いびきのような息づかい、速くて弱い脈拍、発作時間15分。その後発作は全般的な衰えをみせて意識回復。1953年に再発。以後毎月末に発症。」[4]。 さらに、ドストエフスキーの父親に、ある種の発作のような症状があったという説や、次男のアリョーシャが3歳で重積発作で死亡したことから、ドストエフスキーのてんかんには遺伝的素因が存在した可能性がある。

ドストエフスキーの生活スタイルが彼の発作の頻度と激しさに影響を与えた可能性がある。 通常、彼は日中眠って、午後10時半から午前5時まで執筆し、夜中に大量の紅茶とシェリー酒を数杯飲んだ。 また、彼の発作の頻度と強さは心理的ストレスに関連しているようだ。アルコール依存が症状悪化させた可能性もある。
(訳者注:ドストエフスキーがアルコール依存症だった点については確認できていない。)

ジークムント・フロイト
(1856 - 1939) は、1928 年に「ドストエフスキーと父親殺し」を発表した。フロイトは、ドストエフスキーは父親の死に対する罪悪感から生じたヒステリー発作で苦しんでいたと主張した。 「ドストエフスキーの発作は神経症の症状である可能性が非常に高い。したがって発作はヒステリーに分類されるべきである。」 [5]。 つまり、フロイトはドストエフスキーのてんかんを疑似発作であったと示唆したのだ! 現在の医学者たちはこのフロイトの診断を否定している。私も同様だ。なぜなら、ドストエフスキーの発作は夜間と睡眠中に起こり、発作によって身体を損傷することさえあった。また、発作後の混乱、眠気、言語障害が明確に記録されている。「午前8時45分、激しい発作。思考が断片的になり、非現実で夢見心地になる。罪悪感。背中の椎間板が脱臼したか筋肉が損傷したかのようだ。」[6]。

ドストエフスキーのてんかんについて、著者たちはさまざまな医学用語を使って分類した。フランスの有名な神経内科医であるアンリ・ガストー
(1915 - 1995) は、当初、提案していた側頭葉の部分てんかん説を覆し、原発性全般てんかん説(generalized convulsive seizures)を主張した。しかし、その後、明らかな側頭葉病変(temporal lobe lesion)の症状があったことを認めている。 [7]。 Voskuil は、ドストエフスキーのてんかんはエクスタシー発作を伴う側頭葉の部分複雑性てんかん( partial complex epilepsy) であったが、それが二次性全身性夜間発作 (secondary generalized nocturnal attacks)を引き起こしたとした。[8]。 Kiloh は辺縁系てんかん (limbic epilepsy) の診断を示唆した。[9]。Baumann らは 内側側頭葉てんかん (mesial temporal lobe epilepsy) を提案した。[10]。19世紀と現代の疾病分類の概念の違いから、ドストエフスキーの発作についての現代医学の記述とドストエフスキーの作品の中の記述に互換性はない。 [11]。 しかし、ドストエフスキーがてんかんを患っていたことについては疑いを入れない。彼は、家族・親戚・友人への手紙に発作について繰り返し書き送った。また、作品の登場人物の発作の描写にも自らの体験を反映させている。

ドストエフスキーは、発作は過度の性的興奮とマスターベーションによるものであるという一般的な理論の外には、てんかん患者に何も提案できない19世紀半ばの医師を信頼していなかった。 1846年、ドストエフスキーの医師たちはドストエフスキーをヒルと瀉血で治療した。[8]。しかし、いずれも効果のない高価な治療法であった。 彼は息子のアリョーシャがてんかん重積発作で亡くなるのを空しく見守るしかなかった。彼が主治医に対して否定的な感情を抱いていたことは理解できる。


心因性の非てんかん発作

てんかん(Epilepsy)はギリシャ語の「つかむ」に由来しており、悪魔に取り憑かれたり捕らえられたりすることを意味した。 19 世紀半ばに神経学が登場すると共に、てんかんに対する理解が深まった。 1873 年、ロンドンの神経科医ジョン・ ヒューリングス・ ジャクソン
(1835 - 1911) は、発作は脳内の電気化学的エネルギーの放出によるものであると発表した。 その後まもなく、臭化カリウムがてんかんの治療における最初の効果的な薬として導入された。ドストエフスキーがそれを使用したという証拠はない。 1920 年代にハンス・ ベルガー (1873 - 1941) は脳波計を開発し、アルファ波のリズムを記述し、発作に伴う異常放電を確認した。 1938 年にフェノバルビタール(phenobarbital)が発売され、その後フェニトイン/ ディランチン( phenytoin/ Dilantin) が発売された。抗けいれん薬の幕開けである。 有史以来、てんかんは本人のみならず、目撃する人々を恐怖に陥れていた。 また、てんかんに関する社会的偏見は、患者に恥と憂鬱の感情をもたらした。ドストエフスキーは「発作は妻を死ぬほど怖がらせ、私を憂鬱と落胆で満たした記している。[9]。

心因性非てんかん発作
(Psychogenic non-epileptic seizures:PNES)は、てんかん発作に似た観察可能な行動や意識の突然の変化だが、患者の脳には異常な電気生理学的変化は起こっていない。 精神障害の診断と統計マニュアル DSM-5-TR では、PNES を発作を伴う転換性障害(conversion disorder with seizures)として分類している。 いくつかのデータによれば、てんかん手術の適応になった患者の 20%、難治性てんかん患者の 50% が PNES を患っていることを示している。 [12]。 PNES患者は無意識の動機を持っている可能性があり、小説のスメルジャコフのように、詐病のために発作を利用している可能性もある。 PNES患者の約15%も真の発作障害を患っており、これもスメルジャコフの場合と同様である。 DeToledo は、ドストエフスキーは模擬発作から得られる二次的利益を明確に理解しており、『カラマーゾフの兄弟』の中で、スメルジャコフによってそのことを明らかにしたと指摘している。[13]。

PNES患者は、敵意、怒り、不信感を特徴とする対処のスタイルを持っていると説明されており、これはまさにスメルジャコフに当てはまる説明である。[14]。 PNESの背後には、主たるあるいは二次的な報酬が存在することが知られている。 てんかん患者の中には、てんかんの焦点を囲む脳領域の神経活動を故意に変化させ、実際の発作を誘発する場合がある。 [15]。スメルジャコフはイワンに、フョードルを殺害した翌朝、おそらく殺害のストレスと詐病を解除しようとする負荷により、かえって本物の発作が起こったと話している。

スメルジャコフは養父母、医者、捜査官、検察官、町の人々をPNESで騙した。イワンとの対話を経て初めて、スメルジャコフの発作と彼の犯罪の真相が明らかになった。 彼は父親のフョードルを殺し、その責任を憎んでいたドミトリーに押し付け、イワンを狂気に追い込んだ。 ドミトリーの裁判の前夜に首を吊って自殺したスメルジャコフは、文学史上最も完璧な復讐計画を遂行し罪を免れた稀有な人物の一人である。


カラマーゾフの兄弟

行動科学が学問として体系化されるずっと前から、ドストエフスキーは心理学と精神病理学に対する深い理解を、登場人物たちの描写を通して後世の読者に示してきた。 『カラマーゾフの兄弟』では、著者は人間の精神のさまざまな要素を説明するために、登場人物の長所と短所を誇張して描いている。ドミトリーは、放蕩、飲酒、攻撃的敵意、浪費癖など、官能的な人物の一例である。イワンは純粋な知性の持ち主である。理性主義で、自分の殻に閉じこもり、人生の道標も道徳的な迷いも持たず、孤立している。 アリョーシャは精神性の神髄を体現している。無邪気で、傷つきやすく、子どもに特別な関心を抱いている。 スメルジャコフは、ドストエフスキーがすべての人間の中に潜在していると考えた悪を象徴している。

ドストエフスキーは、大人には悪が宿る一方、子どもたちは不完全な世界の中で堕落するまでは純粋無垢な存在であると信じていた。堕落が起こって初めて、人は他人に意図的な苦痛を与えることができるようになるが、これはドストエフスキーが考えた悪の特徴の一つである。 人生をどのように生きるべきかについて言えば、スメルジャコフは憎しみが自らを焼く尽くす自殺の一形態であることを示している。 イワンは、精神性のない知性は行き止まりであることを示している。 ドミトリーとフョードルは、人生は財産やお金以上のものであり、愛がなければそれらはすべて無意味であることを示している。 アリョーシャは、子どもと愛は人生の救いであり、未来への希望であると教えている。 ドストエフスキーは、子どもを助けることは神を経験することであると信じていた。[1]。


結語

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは、死後1世紀半を経た今も、人間の心理と対人関係についての貴重な洞察を私たちに提供し続けている。てんかんがダモクレスの剣のようにドストエフスキーの人生に付きまとったのは、 一見すると残念なことに思える。しかし、1865 年当時の医師がドストエフスキーに、現在の処方であるフェニトイン 100 mg のカプセルを 1 日 3 回服用するように処方箋を書いていたら、彼の人生と創造性はどのように変わっていただろうか・・・推測するのみである。


References


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